追悼文4 | 櫻井先生を偲ぶ | 市河晴子 | 『英語青年』 | “THE RISING GENERATION” [March 15,1939 Vol.LXXX.-No.12]より | |||||||||||
櫻井錠二先生が急逝された。私達はもう又と再び先生の「例のお話」を伺う喜びを味わえなくなったと、相顧みて嘆息している。今ここにその先生の「例の御話」を書き止めて先生を偲ぶよすがとしたい。宴会などで先生が上機嫌になられると、必ず一度は明治9年の最初の洋行時代の思い出話が出た。 「何しろ Victoria朝といえば、政治界には Beaconsfieldに Gladstoneという大立物中の大立物同志で肌合いのまるで反対な二人が、両々相下らず張合っているし、文学界には詩に Tennyson あり、評論に Ruskin あり、小説に George Eliot ありでしょう。 Darwin の研究にも実を結ぶし、Spenserも仕事に油の乗った盛り、演劇界では当時日の出の勢いの Henry Irving と Ellen Terry が毎夜々々客を吸い寄せて、満員客止めだったものですよ」とここまでは、いつも一息に話し続けられた。其の人名の一々を愛と賞賛のこもった力を入れて指を折りながら、余り一流ぞろいの人物で、今さら呆れたように眼をパチパチさせて、いかにも満足げに笑われる時、「御民われ、生けるしるしあり、天地の栄ゆる時に会えらく思えば。」と古人を詠はしめたと同じ喜びが先生の内に湧き上るのだった。御民われならねど人類の築き上げた文化の絢爛豪華を親しく見るを得た「人」としての大切な喜びが先生の脈拍の数を増しているかのように見えた。お話の筋はここで相手によって二つに分かれた。もし聞き手が野暮な男連中だと、なおも当時の英国の大勢について物語れた。「私の行き合わせた時は丁度ロシヤと戦うかどうかというので、論争鼎<カナエ>の沸くが如き時で、その結果例の有名なBerlin会議がBismarckをChairmanとして開かれて、Beaconsfieldが出かけて行って、大成功で、意気揚々と引き上げて来た時のLondon中の熱狂振りといったら大変なもので、”Peace with honour”というのが合言葉のようになって、皆左様叫んでは街中で見ず知らずの者が抱き合う騒ぎでしたからね。私達学生も、それまで政府の腰が弱いと歯痒ゆがって手を組み合って、当時の流行歌を怒鳴って歩く位夢中になっていたので、おかげで今も其の歌はちゃんと覚えています。”We don’t want to fight, yet by Jingo! If we do, We’ve got the ships, we’ve got the men, and got the money too.” 拍子をとって “by Jingo”で拳で卓を打つように力強く振り下した手を終わりの “too” の時高く調子を張りながら手も高く上げて指をスナップして手首を軽く振り廻されると、聴き手の拍子がそれに和すのが常であった。去秋 chamberlain 首相はチェッコ問題で、ドイツに渡って平和を故国に持ち帰った。然し Peace with…何という合言葉が生じたか私は知らない。歴史は繰り返す、しかも甚だ皮肉に。その原因は大英国が、今回学生達に We’ve got the aeroplanes と歌わせ得なっかた事に起因するらしい。「櫻井先生は、さぞ感無量でしょうね。」と私達は御噂するのだった。 先生のお話は聴き手に婦人が多いと、 Victoria朝の繁栄の御話は Henry Irving と Ellen terryの名妓の方へと向いて行って、先生はいつも脚本の下読みをしてから、本を持って劇場に行き、舞台の照明で字の読めるようにかぶりつきに座ったといわれた。一番前列のシートの事をかぶりっつきとか小一<コイチ>とか、芝居道の言葉でいって楽しまれる時、よく私の方を見て、あなたにはお父様の御仕込みで解かるね、というように優しく微笑された。私の父穂積陳重と先生は共に明治9年に洋行した親しい友であった。いづれ劣らぬ芝居好きで、明治初年の劇に王者として君臨していた彦三郎のファンであった。出発直前に見た狂言が「宇都宮釣り天井」で彦三郎の殿様が陰謀の発覚を知って激怒して責任者を責める、見せ場がある。ある夜船室で先生と父とが、その殿様の「おのれ。餘四郎」というせりふのよさの話で夢中になって声色<コワイロ>を始めた。「おのれ・・・」「いや、それでは力が足りない、もっと怒りに上ずっていなくてはいけん。」「おのれ・・・」それでは大名の品位が出ていない、「おのれ・・・」と段々大声を出して、ギックリ見得を切った途端に隣室からコツコツと壁をノックされて、顔を見合わせ首をすくめたと、思い出深げに物語られた。 先生は瀟洒<ショウシャ>な風采の方でスコットランド人中によく似た人を見出す。 その事を母に話すと頷いて「左様だろうね。もう五十年も前のことだが、大学の御祝日に、植物園の日本館で「湖上の美人」の一くさりをなさったことがあって Roderick Dhu は大柄な西洋人さんで、櫻井先生が、あの若武者、実はスコットランドの王様をなさったが、衣装つきから仕草まで水際立っていらしたから、独りで人気を摂って行って御仕舞いになったよ。あの芝居なら敦盛の方が強い、熊谷、敦盛組み打ちの場という風なものだから言葉の解からない奥さん達にも大うけでした。法科の先生方の「ジュリアス・シーザー」は、菊池大麓先生が Brutus をなさって、いつもの通り温厚な御笑顔で壇上から諄々<ジュンジュン=混じりけのない事広辞苑>と説かれると見ている生徒も、いつも通り筆記帳を開けてノートをとり度くなるという評判で、お父様も利口な櫻井君には敵わんと御笑いになりましたよ。」と母は語った。 八十を越えても御足元は確かなもので、葉山の御別荘への往復など三等車に乗られるのを、その御気軽に恐れ入りながらも、少しも御不安と思わなっかた。それを申すと先生はお得意で「これはネ皆昔ダンスで鍛えた御蔭ですよ」と云われるのだった。先生は在英中 University Collegeで火の出るような勉学の傍らダンスにも熱中して、良家の招きで踊りに行かれる故、朝タキシードをスートケースに詰めて、登校の時下げて行って・・・といかにもイソイソした形にかばんを下げる手つきをして・・・学校から向こうの家に廻って踊り明かし、朝又平服に着がえて、スートケースを持って登校されたという。ランサーズ、コテイリオン、カドリール、ポルカ、と古風なダンスの名をあんなにも懐かしげに数え得る方は、もう日本に居まい。板東彦三郎を「ひこさ、ひこさ」と愛称し、Gladstoneの名を云う時「あの The grand old man と呼ばれた・・・」とつけずに居られない愛を持つ方は、もう居まい。学界に置ける先生の御貢献は、私などの窺<ウカガ>い知る限りでない。然しその偉大な御功績の素因が、巧名への野心からでなく、良き物、美しき物への憧れの情熱であった事を、先生は楽しい談笑のうちに教え訓して下さった。御姓名も御風采も、スマートな感じの先生はカットグラスの名器の中に日輪の一片を納めたような熱と光を以って、輝かしく、温かく、清らかに、国の宝と輝いていらしった。千年経っても箍<タガ>の緩む心配は無かった。然しガラスは危い。肺炎と伺って私達は「あっ。とうとう」と息を呑む隙もなく、先生は八十二年の曇りなき御生涯を一杯に生き切って玉と砕けられた。スケールの大小は問題ない。只先生の様な生き方が真似たい。そう申すことは余りにおこがましいかも知れないが、ひこさを贔屓<ヒイキ>にされると、大して似てもいない声色を気軽く使われた先生は、「あゝ、真似て御らんなさいとも」と笑って頷いて下さると思う。
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